ありがとう存じます。
唯先生、おはようございます。
今日のお身体の調子はいかがでしょうか。
くうは日々成長し、だいぶ重くなってきました。
過去のブログに平成22年3月5日のグループ接心のお話が掲載されていました。
『あのね、一番最期がどない大事やっていうことは、
どんなに家族がいっぱいいて、毎日毎日大事にしてくれて、
幸せやなって思って、ちょっとトイレ行ってたとか、
外れた時に死ぬ人がいてるっていうことや。
だけど、ずぅっと不幸やと自分が思ってたのに、
たまたま、その時、家族がいっぱい来て、賑やかに喋ってて、
それを見ながら死ねる人もあるってことや。
だから、何が不幸かは、この世で私たちが考えてることなんやな。
あっち行ったらどうかわかれへん。
セキセイインコが見ててくれとは言わへん(笑)
生き物は、皆、そうやって…違うねん、あのね…
犬でも猫でもね、昔はちゃんと放し飼いにされてたとしたら、
どっかへ消えるねん。
ほんで、人の見えへんとこ行って…死は自分でわかってるから…
あの…人間の姥捨て山みたいなもんやな。
自分でどっか行って、あないなとこで、ぐ?っと、
最期をじーっと自分で耐えて死ぬねん。
それが、人間より偉いと私は思うねん。
人間はしんどいやのへったくれやの、言い倒すやろ?
姥捨て山は、ほりにいくねんで。
そこ…間違うたらいかんで…自分で行くわけやないけど。
だから、私は騒ぐなっていつも言うのはそれなんや。
何があっても騒ぐなって。
痛いやのへったくれやのって、そんな、どないもならへんやろ?
医者に言ったってわからへん。
痛さをね、測る器械があって、お医者さんが、
「あ、これは痛いなぁ」っていうふうにわかったらいいのにって、
医者が「そんなことしたら、躰もてへん」って言われたけど…それはわかるわ。
その度にその人の痛さを計ってたら…
それと、も一つは、お酒と一緒で、猪口一のお酒でも真っ赤になる人もいれば、
一升飲んでも平気な人がいてるみたいに、
痛みだって、「これは痛いで」と思っても、もし同じ痛みを与えても、
「ちょっと痛いけど、そんなに言うほどやないよ」って思うかわからへん。
皆、それぞれ違うと思うねん。
だから、苦しみも違うのに、ものすごく大層に、
「苦しい」とか「寂しい」とか言うなっていうねん。
それは自分で耐えるものや。
動物は、皆、そうして耐えてんねん。
ただ、人間社会におって、家の中で飼われたり、
それか、もしくは、くくってたりするから、看取ってもらってるけど、
放してたら、わからへんとこ行って死ぬねん。
象かってみなそうでしょ、どっか入るって。
せやから、それと一緒。
動物は、そうやって、自分で自分の最期を、自分で耐えて、向こう行くねん。』
『あのね、動物から見習いなさいっていうことは、そういうことを言うねん。
自分のことをギャァギャァと騒ぐなって…騒ぎ過ぎやと思う。
しんどいことも、辛いことも耐えて、何かあった時に、
「でも、ほんとにしんどいよ」って、「死ぬかと思ったよ」ってことがあった。
そういう体験を、皆、したはんねんと思うねん。
「今、しんどいねん」…言うてみても治らへん。
だって、医者が来たって治らへんもん治らへんねんで。
痛みを止めるって、痛み止めするだけやろ?
そうでなかったら、あの人も死んでへんやろ?…こないして踊ってた人。
名前出てけへんねんけど。』
自分を基準に人の痛みを計らないようにしなければと思います。
唯先生、ありがとう存じます。
ありがとう存じます。
菜穂美